昭和49年09月24日 朝の御理



 御理解 第17節
 「神の綱が切れたと言うが、神からは切らぬ。氏子から切るな。」
                                                                               いろいろに、これは頂ける御教えです。信心をしておって難儀な事困った事等が起こってくると、これほど信心するのにこんな事があったり起こったりするならば、信心はもうやめる。もう神も仏もあるものか。と言った様な考え方。終戦直後にそういう神仏崇拝の気持ちと言った様なものが、無くなった様な状態になったのもやっぱりそうです。一生懸命に日本大勝利を願うておったのにも拘らず、大変な犠牲を払ったのにも拘らず、敗戦いわゆる戦に敗けた。しかも無条件降伏である。
 それこそ神も仏もあるものかと言う様になって、信仰心というものが地に墜ちてしまうと言った様な状態になった。考えてみると神様ともあろうお方が、又は仏様ともあろうお方がです。只日本人だけ加担しなさるはずがない。神様は公正なのである。公平なのだ。まぁいうならば日本の在り方よりも、その相手の国々の人達の在り方の方が、本当だったからこそ、日本が負けたんだとも言えるし。
 いかにも負けた様にあるけれども、それは負けるは勝ちと言う様に、却って敗戦日本が、いわゆる経済の面では、世界でも指折りの経済大国と言われるようになったと。だから昨日も私霊祭終らせて頂いて、あそこ十名あまり先生達残っておりました。時に話した事ですけれども、もう神様の願いとか思いとかとゆうものはね、どこまで深いか、広いか分からんのだから。だから途中で右の左のといや是が本当だとか、是が嘘だとか言う事は、決められないんだよと言うて色々と話した事でした。
 この頃から、日田の綾部さんの御招待で、福岡にお芝居見物に私共夫婦、招待受けました。その時に繁おっちゃまも、是非おい出て頂く様にと言う事であった。勿論高橋さんがあちらへ道案内で、まあ来て頂いくもんと思うておった。所が繁雄さんは何か都合があるから今日は行かれんと言われる。高橋さんも、久留米に用事があるからと、何とか言うて来られなかった。
 そのための私共、あちらの綾部さんところの運転手さんの、案内で行ったんですけど、道を間違えられて、行きも帰りも間違えられた。そんな事があったんです車の中で。昨日もその事を話して笑った事ですけど。私がね明日が見事ばいと言うた。高橋さんも繁雄さんも言うならば、私の言う事を聞きなさらんかった。是は高橋さんやら、久富繁雄さんに、神様が期待が大きければ大きいほど、その様な所は、はっきりしているんだと言う事を信じております。
 だから私が言う事を聞かやったけん、罰かぶらっしゃったと言った様な意味じゃないですけれども、そこに何かの神様の形が現われているに違いはない。所が二、三日経っても何ともあった模様じゃありません。二、三日してからですもん。繁雄さんも同じですけどあん時は家でホーレン草を、千把からそうにゃ忙しい思いをして作ってね。それが市場に出さして頂いたら、その時丁度ほんの前の人達はね百二十円で売れた。
 そして自分所になってきたら、その半分の六十円になった。国雄さんというのが息子ですが、国雄が今日はもうほんな、もう他んとは百二十円で、家んとは六十円で六万円も損したと言うてから帰ってきたと。その時繁雄さんは、すぐ胸に手を置かんでも分かる事だと、思うたという話なんです。高橋さんなここから私の方福岡の方へは行かずに、久留米に行って、行ってから自動車を止めた途端に後ろからぶっけられた。それこそすぐこれは胸に来とるけれども、中々それを私に言われませんでした。
 それも何日かして聞いたんですけど、それが島の島津久さんという人が突き当てた。私もよく知った方で、そこの中村さんの所の合楽食堂には、いつも上得意さんでみえられる方です。お届けがあるから、私もそう言う意味でよく知っておるのです。例えばそういうそこまで、お終いになればね、神様もゆうならば浅いです。例えば私の言う事聞かじゃったけん、お気付け頂いたと。
 例えばこの頃総会のときに、五十一台でしたかね車を連ねて参りました。それにたったその中の一台だけが、永瀬さんの車が今度反対に追突した、其処にです例えばあの長瀬さんんの場合でも、本当にあのー不浄と不浄の出会いと言ういう話を、車の中でなさった。もう瞬間だったそうですね。私がこの乗って来とる車も、お葬式から帰ってきとった。私の方にも親戚の方に、生々しい葬式を終えたばっかりで、本当いうならば普通で言うならば外に家ならば、遠慮しなければならないような。
 けど金光様はですねそんな不浄やら、嫌いなさらんけんねと言って間もなくです。それでそういう不浄のない方達は全部田主丸で降りてしもうておられてね。牧まで来てから、牧の右でそのもうそれこそ、永瀬さんは、大変運転の方は、自信もあんなさるとに、自分でもどうしてあげなふうに突け当てたのか分からない様な事で、人の車に突き当てた。しかも、合楽総会のときその時私はこれは余談ですけれども、本当にですねあのう自分の心に不浄を感ずるとき、この車もお葬式から帰ってきたばっかりの車。
 私もそんな私も親戚の身近なものが亡くなった葬式をまで終えて、本当に二、三日しか経たなかったときでしょう。それで金光様は不浄は嫌いなさらんと、こう口では言いよるけど、心の底に不浄を感じとるわけです。不浄そこん所を、教祖様はね『不浄のあるときには、先に断りおいて願いある事を頼め』と、教えおられる。
 金光様は決して不浄をきらいなさらん。けども不浄をどこかに感ずると、その感じておる事か。不浄と呼ぶのです。だから神様は、それに念にはねんを入れてです。心に不浄を感ずるときにはです。心に不浄のある時には、先にことわりおいて願いある事をたのめと言うておられます。やっぱりこげな事になるためにはですね、という話を其の後に聞かせて頂いたんですけれども、いかにもそれでおかげを落した様にありますし、また修繕賃が八万円から掛かる。
  本当に古賀さんと懇意にしとられますから、古賀さんと永瀬さんとその晩にお神酒どん持って向こうに、断り方々あとの相談事においでられた。向こうも大変心良うまぁしていただいたそうですけれどもね、色々話よったらその車に乗っとられん方とは、高塚の地蔵さんに参なさった帰りじゃったげな。高塚の地蔵さんちゃよう事故が起こると言う事を聞いとったが、自分達の上に起こっとる訳です。それは高塚の地蔵さんも聞きなさろうばってんどうでんこうでん、合楽にも参って下さいとゆうて。
 却って合楽示現活動が出来ましたとゆうて帰ってみえた。まだこれからどげんなるかまで、未知数のものですけれどもです。それから帰られたら、車も娘婿さんの車でしたからほんのちょっと前にです。保険にかたってあったそうですから、それもおかげで後はみんなおかげ。おかげむしろ却って示現活動まで出来たと言う事ですから、もうどのへんで切って、ここでおかげを落したの、間違うとったの、本当だの本当じゃないのと言う事は言えないのです。
 金光様の御信心は、繁雄さんの場合だってそうです。高橋さんの場合だってそうです。高橋さんは衝突されてなら、島津さんという方はここへお参りするようになったんだから。だから親先生はお気付け頂いたとゆうばってん、いや自分なおかげ頂いたとゆうても良い訳なんです、却っておかげ頂いたとゆうて良いので、是また分からん。又ね神様の働きがね、私共の知恵力で分かるほどの神様から大した神様ではないです。もうこの頃信心が解らなくなった。
 私はもう本当に神様の心が解らん。これ程信心さして頂いておるのに、どうしてこんな、私は神様の心が解らん様になったと、解らん程しの神様である所に、素晴らしい神様である事が、私は解らにゃいかんと思うんです。そこでです私は今日の御理解を頂いてね。例えば信心しておって自分の思う様にならなかったからとゆうて、信心のいわゆる神の綱を放す様な事では、神様が本当に下さろうとするおかげに、とうとうねえ会わずして、お終いになってしまわなければならない。
 もう是だけは絶対といえれる事はです。とにかくどの様な場合であっても、お米の話じゃないけれども、頂きようで有り難い勿体ない、で頂いてさえ行けば、絶対おかげになると言う事ですよ。どう言う難儀な事が起こりましてもです。昨日一昨日でしたか、桜井先生が久留米の方にお出でられて、たまたま花畑のほうに行かれた。それで古賀さん所に寄せて頂いた。また先月それこそ丸焼け家事に遭われたんです。所が行ってから、桜井先生もたまがられた。
 そりゃもう親先生素晴らしいお家が建ちよりますと言う事でから、また古賀さん自身もです。本当に神様の、おかげといわなければおられん程しに、万事万端の上に御引き回し頂き、御都合お繰り合せを頂いて、本当の意味において焼け太りのおかげを、このまま行けば、頂くだろうと思うような感じであります。だから焼けた事がおかげ落しでも、何でもないと言う事です。解らん。神様はどういうおかげ下さる事のために、問題があったり難儀があったりするか分からん、だからそういう時にです。
 神の綱を緩めたり、又は神の綱を切ったり氏子からするなと、そういう時の事を仰っておるんだと思うですね。さそこでです。なら神の綱が絶対に切れん事の為に、昔の先生方がよく言われた。これは本当に金光様の信者に仕上げてしまうためには、改式をさせなければ、ならないと言われとります。今まで例え、仏教なら仏教キリスト教ならキリスト教でいっとったものをです。それを全廃する。もう生きても死んでも、金光大神の御取次によって、この世でも金光様なら、あの世でも金光様の御取次頂いて、おかげ頂くんだという信念と、そういう信心が分かってきたなら、改式をさせるのが一番良か。そしたらこの信者はもう動かんという意味なんです。
 神の綱を切ろうにも、切れなくなってくるんだと。成程それは一つの方法ではありますよ。皆さんとてもやっぱり本気でですね。どういうそれこそ何百万もの仏壇を拝んどっても、そげなもんな値打ちはなかです。先日ある方のそれこそいくらかかるか分からんような仏壇を拝まれたというお届けがあった時に、私の御心眼には石灰箱に紙を貼って、仏様をおまつりして頂いたです。ある所を頂いたです、只ほんな飾りに置いてあるとです。思いもなからにゃ真もない。
 御仏前の前に座ったからというて、安心が湧くわけでもなければ、喜びが湧くわけでもなっければ、言うなら信仰であるならばです。どれだけそれこそ金ぴかの御仏壇を拝んでも、それは石灰箱におまつりしとるようなものなんです。まあそれと反対のことが言えましょう。それは実際は石灰箱におまつりしてあるような神様であっても、仏様であってもです。神様の世界には、それこそ白木造りのね、もうそれこそ素晴らしいお宮であったり、仏壇であったりというたような、事実もあるのです。
 真心ですよきっと信心です。そこで成程改式でもさして頂いとれば、成程子供達でも孫達でも、家は改式してしもうてあるから、もう金光様でお祀りすると言うてもです。信心が続くとは限らないです。只金光様に家は改式しとるというだけで、子供どんが死んだり生きたりする時のためだけの、改式であったらどうなりますか。親の時代はそうにゃ信心しござったばってん、子供の時代は信心をスパット止めとる所は沢山あります。だからいうならば、改式もあまり当てにはならないと言う事なのです
 。一つの方法ではありましょう。改式をすると言う事は、神の綱を切らんで済む孫の末まで続くかもしれんけれども、信心をせずして、ただ金光様の実は教徒であると言う事であっただけでは、値打ちはないのですからね。昨日も何の話からでしたか、私はその話の中でした。丁度正義さん達が前に座っとりましたから、「ほんにね、この頃十三日の日は、上野先生が、あんた方のおばあちゃんの事で、お知らせ頂いとる話聞いてね私は正義さんに話とけと言うとったから、話を聞いたね。」
 と言うたら「いいえ聞きません。」と言う。それこそおばあちゃんの一年祭、丁度一年になられますか。一年かそれも全然知らないのですよね上野先生は。そしたらお夢か御心眼でかちょっと忘れましたが、あちらのおばあちゃんが、敬親会にいつもみえられるのをそれこそ、いそいそとして、敬親会にかたっておられた。自分の姿そのままでね。今日は家では何か一年の法事か何かありよるばってんが、ここへ来たって見えとる所を頂いた。と言うんです。
 おそらく久富組のことですから、そりゃ随分素晴らしいお金をかけられたり、随分のやっぱり賑やかな御法事じゃったろうと思いますよ。一年ですから。けども霊様はここに来てござったと言うのです。言うならばあれどんが家で法事してくれよるばってん、ありゃあ何にもならんけん私はこっちに来たと。まあー言葉を言うならそういう意味のことじゃなかろうかと思う。
 また実際今の坊さんでですよ。霊の喜ばれるような働きのできる坊さんがあるとは思われませんもん。病気一つ救い治しきらん宗教で、生きた宗教とは言われませんもん。むしろ死んだ霊様を扱うということなんかは、私は生きた人間より難しいと思うです。何時も霊様のお祭りときでもそれを思います。言うならば電気工の人達がです。裸の電気を扱えるようにならなければ、一人前とは言われないと言われとります。
 宗教家でもです。私は本当に霊様の事が分かり、霊様が自由に扱える。私は宗教であり宗教家でなからなければならない。本当の宗教家の値打ちはないと思います。ですから、今日は皆さんにね、「神の綱が切れるというが神からは切らぬ。氏子からは切るな。」と。だからどう言う様な事があっても、神様の綱を切らんで済むおかげを頂く為にはです、只なら改式をしたからどうこうじゃない。成程なら改式でもさして貰う。
 それこそ仏壇でもパーッともういうならば、それこそ創価学会じゃないばってん、川に流したり焼いたりしてから、創価学会一本にならなければならない。是も私は本当はそれが方が本当と思うですね。けどもその矢張り人間の感情というか、そのう色んなものがありますから、是はもう自分自身が本当にそういう確信を持ってからなら、そう人に垢離も積ませずに、そうせなければおられんのです。それこそ私共は改式さして頂く仏壇も、立派なものがありましたけども、全部崩してしまい焼いてしまいました。
 御大神宮様から皇大神宮様あらゆる神々様も、全部天地金乃神様の中に、言うなら懐の中に、包含して入って貰いました。だから勿論焼きました、でなかったら一心になれませんものね。なら神様に私はこれ程一心で御座いますというものをですね。印を証を立てるようなものです。私はもう一心で御座います。ほんなこの世だけおかげだけのために一心といいよる。そしてから死んだら御仏壇の中に入っていこうと思うとる、そう言う事では、本当のおかげを頂ける筈はありませんよね。
 けどそういう例えば、これは感情につながる事です。お互いそれで反発を感ずる人すらある位ですけど、これは結局は銘々のものだと言う事になります。銘々のものなんです。それで改式をその高島さんなら、高島さんところ当りは改式がしてあります。幸いに子供達も孫達も信心するから続くでしょうけれども、信心が解らんなりに、継承しておっただけではです。それは大した事はありません。そこでですね、先日から頂きました御神訓の最後にあります。
 [信心の道を迷わず失わず、末の末まで教え伝えよ]という信心を身につけて初めて神の綱を切らんで済む。いやここが分かったら、改式をせねばおられないと言う事になるのじゃないでしょうか。信心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝え行く。神の綱を切る段じゃない。緩める段じゃない。愈々強く愈々固くそれこそ、昨日の御理解の中にも申しますように[結ぶ綱目の揺るぎなく]と言う事になって来るです。神と人と霊とそれを私は、是が本当の意味においての合楽示現活動だと申しましたんですけどね。
 神と人と霊と言う事はです。神様も喜んで下さり人も喜ばして貰う。先祖の霊様も喜んでもらえれるという信心です。だから合楽示現活動というのは、神様が喜び下さる。神と氏子とが、喜び合えれる世界を懇願して行くと言う事が、合楽示現と言う事なんです。そういう信心、神と人としかもそれに霊様も、成程根を霊とするなどはです。根が栄える。そこに人の世にいわば花も咲こう結実、実も稔ろうと言う訳です。そういう極楽のおかげを頂いて、そういう最高のおかげを頂いてそのおかげをです。
 自分の周囲に示し現わして行こうと言うのですから、神様がお喜びになさる。それを合楽示現活動と言う。そこでなら神と人と霊そこもしかもです。結ぶ綱目の揺るぎなくおかげを頂いて行く事ためにです、信心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよと。真心とは真心と書いてあるなら、なら真心とはです自然、天地自然がです。私共人間一人一人の上に、現わして下さる事柄、問題言うならば、それを合楽では御事柄というわけですけれども、それを私共は、合掌して受けていく道を真心という風に頂きますですね。
 これはもう本当にそうなのです。真心とはね、神様が私共に求めて下さる、自然が私共に求めて下さる。それを私共が合掌して受ける心を真心というのです。それが真心の道なのです。それが真の信心なのです。だからそう言う道を体得して、そういう道を、子にも孫にも、伝えておくならば、これはもう、絶対のものだと私は思います。結ぶ綱目の揺るぐ段ではありません。ますます強く固く結ばれていく事でしょう。そして愈々神と人と霊の、言うならば真心。
 霊それが共に栄えて行く所のおかげに繋っていくでしょう。そういう根本的な所の信心を頂いてはじめて、結ぶ綱目の揺るぎなく。神と人と霊が助かり合うて行けれる、喜び合うて行けれる、世界が開けて来る。そういう信心でなからなければです。末の末まで教え伝えられないと思う。これだけと、体得しとけばと言う事になる。そこに勿論素晴らしい信仰体験というものが生れて来るわけです。
 そこにです言うならば、先ほど申しました、神様のお働きというものは、私共人間のいわば、知恵力いわば、浅い心で分かるはずではない。この神様はどういう場合であっても、もう限りがない。あ親先生の言うこと聞かやったけん、お気付け頂いた。成程それも嘘ではないでしょうけど次にはもうです。神様が次の人が助かって行く事の為の働きを、そこに現わしておられる所を見るとです。あそれもやっぱりおかげ落しでなくて、と言う事に成って来るんですからね限りがないです。神様のお心というものは。
 深さ広さにおいて、私共が言うなら知るはずはありませんけれどもその神様のお心を少しでも本当に分かって行こうという限りない精進こそが、金光様の信心でいう本当の修行であり精進だと思います。ここまでは、分かったから良いと言う事があるはずがありません。現世においてだけではない。あの世でも矢張りそれを繰り返し続けて行く事なのです。金光様の御信心というのは。そういう信心を頂いたときはじめて、神の綱を切るなと教祖が、教えておられる。
 切る段の事ではない。ますます固く結ばれていくおかげ。そして神様と人間とそして、御先祖の御霊様とが、その三つ三様がです。いよいよ助かりの道を進まして頂くと言う事になって、本当の金光大神のお取次を頂いて、本当の金光様の信心が、肌にはいって、信心生活ができるということになり、これならば絶対に、言うならば、子にも孫にも、いわゆる子々、孫々に伝わり残っていく。
 信心とはそういう信心を言うのではないでしょうか。ただ改式しとるからというたってです。もう二代目は金光様の信心を止めてしもうてから。また元の仏教に還ったという人もあるくらいですから。だから改式だけが、いわば結ぶ綱目を揺るぎなくするものではないと言う事。けれども私共は、段々そうしなければおられないほどの信心を頂かなければ、しかしこれは、綱目が緩んでくると言う事であります。
   どうぞ。